小さいカメラは画が悪いだろうと思いがちだ。そしてそれは強ち間違ってはいない。フィルムカメラなら、小型フィルムと小さいレンズの組み合わせになるし、デジタルカメラならば、フィルムが小さな撮像素子に変わるから画質的には不利だ。小さいカメラは携帯性を獲得した代わりに画質クオリティを犠牲にする。なので、古デジカメ蒐集を始めてから小さいカメラは敬遠してきた。見送った機種で覚えているのがCyber-shot Uシリーズ。無傷の状態でジャンク箱に転がっていたので、かなり迷ったのだが拾わなかった。撮像素子の大きさは1/2.7型とiPhone 5sとほとんど変わらない。結局使わないだろうと思ったのだ。SONYが斯様に小さな撮像素子で小さなカメラを作る時、そこにはチャレンジ精神を感じる。ここまで出来ましたよと言われているように思う。しかし、Canonが小さいカメラを作ったなら、少なくとも画質に関してはある程度のレベルをクリアして来ただろうと思ってしまうのは偏見だろうか(だろうな。自前の撮像素子かどうかも分からない)。今でもコンデジの主流となっている1/2.3型は画質的にはそれなりという感じで、たまにハマると良い画が撮れるというイメージがあるが、1/2.5型はどうなのだろうと気になったので、IXY Lを拾ったのだった。CCDと言うのも魅力だった。

2015

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約90mm × 50mmと非常に小さい。なんとも頼りないが、2003年発売で400万画素ある。レンズは換算39mmと標準域の単焦点で開放F値2.8とそこそこ明るい。4群4枚内1枚が非球面となっている。ISOは50始まり。

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レンズの繰り出し量もわずかで、均整のとれたデザインを乱すことはない。ボディはマグネシウム合金+アルミ合金と質感は上々の出来栄え。初期のIXY DIGITAL3桁シリーズに通じるガジェット感があり、手にした時の満足度は高い。

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液晶は1.5型と、小さい部類だろう。十字ボタンはもう少し大きく出来たと思うがどうだろう。電源は長押し仕様なのでテンションは下がる。また、シャッターボタンを押してからシャッターが切れるまでにタイムラグが有り最初は慣れが必要だった。私の個体はバッテリーとメディアを出し入れするためのフタがやたら固くて操作しづらいという個性を持っている。まさかデフォじゃないよね。

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で、肝心の写りは予想外というか、期待した通りというか、良い。このLシリーズは後継機種が何代か続いているので、ある程度評価されたのだろうが、その評価対象はデザインが主だろうな。高感度はキツイから、全体的には画質が良いという評価にはならないだろう。ただ、低感度で撮影すれば問題はない。

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このグリーンの出方が昔のCanonという感じで、深みのない黄緑になる。Pro90ISに似ているな。編集のやりようがないのだが、実物もこんなものかもなとも思う。

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電源長押だから咄嗟の撮影には不向きだが、ぷらぷらと散歩しながら持ち歩くには丁度良い。まぁ、実際には電源オンから1秒位で撮影出来るのだが、私自身が長押しに対応できない体質なのだ。どうしても、軽く押して動作を終えてしまうのだ。困ったことだ。なので、電源はスライド式スイッチが一番好きなのである。

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このカメラで便利だと思うのは、シャッターボタン全押しでシャッターが切れること。今では珍しくもないが、スナップには好都合だ。ただ、小さいので手振れになりやすいのが気を使うところかな。

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使っていくに伴って、手に馴染むというか、レスポンスも含めて呼吸が分かってくるとカメラとのコミュニケーションが実に取りやすい。やはり、根源ではCanon派なのだろうな。

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それにしても、小さなカメラを見なおした。すべての小さなカメラが斯様な結果を出すとは思えないが、このカメラをキッカケに別の機種を確保することになる。これは後日お話することになるだろう。

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ひとつのカメラから、別のカメラに興味がわくのは集古デジカメならではだと思う。一般的には自分が購入した機種のライバル機種が気になる程度だと思うが、集古デジカメでは時代をまたいで物事を考える傾向がある。これがコレクター魂だろうか。コレクションをするという心理は様々あるが、「全てを揃えたい」「揃えなくてはならない」「優越感が欲しい」などが代表的だろう。そして、一度火がつくとなかなか止めることが出来なのだ。

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やめる必要がなければ、究極のコレクターとして生きれば良いし、それはそれで素晴らしいと思う。コレクションとともに生きていくのは幸せだろう。ただし、極端なことを言えばゴミ屋敷になってしまっては元も子もない。本人はゴミとは思っていないのだろうが、他人に迷惑をかけていいという法はない。他人にどう思われようと関係はないのだが、他人にどう思われるかはコレクションとゴミ屋敷の境目ではないだろうか。

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収集癖を止める方法については多くの議論がなされている。完璧なコレクションの一部を手放すと執着が無くなるとか、コレクションのためにとことん借金して身動きが出来なくなって初めて目が覚めるとか、集めることの虚しさを自覚するとやめられるとか、様々なことが言われている。私も、この蒐集に興が乗って止まらなくなった。ところが、とある考えに至り、止める事ができた。

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「足るを知る」とは戒めとも思える言葉だが、私の場合はどれだけ足せば「足るを知る」ことが出来るのか試したかったのかもしれない(本来の意味とは違っているが)。そしてやるだけやっちゃった感を感じることが出来た時に、以前行った断捨離と言う言葉を思い出したのだ。

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私はミニマミストではないし、なりたいとも思わないが、実はコレクターにもなれないタイプのようだ。やるだけやってしまえば、次のことを考えるタイプで、飽きっぽいと言えば飽きっぽいし、前向きだと言えなくもない。そんな私は断捨離の根本には賛同できないものの、ものを処分するという行為には燃えるタイプなのだw。断捨離も真剣に取り組んだら、なんにも無くなってしまうし(心は豊かになるらしい)、それが良いのかどうかは分からないが、少なくとも私には向いていない。向いていないが、燃えるw。断捨離の断は物を増やすことを断つということらしい。断捨離をすると決心すると、それは集古デジカメの情熱を簡単に上回ってしまったのだ。これがやめられた理由。

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今回の蒐集はある意味、前回やった似非断捨離のリバウンドと考えてもいいだろうと思う。なので、今度は集めたカメラたちのリストラが始まるのだ。おそらく所有数は今の半分くらいになるのではないだろうか。本当に残したいものを残す。それだけのことだ。

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この趣味のお陰で一定の写欲はキープ出来ている。これからもローテーションを組んでいけば、残ったカメラたちと撮影を楽しめると思っている。そして、この小さなカメラは残留組だろう。実際にリストラ作業をしてみないとわからない部分はあるが、個性があり、尚且つ画が良いとなると断捨る必要はないと思う。ただ、残したいものを残す時、私はどんな基準でそれを実行するだろうか。まだ、少しだけ時間をかけようと思う。

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こんな話を書くとこのBlogもそろそろ終わりかなと思われるかもしれないが、それはまだ先の話。なにしろやるだけやっちゃったのだから、まだ続くのだ。ただ、コレを書いているリアルな自分はこんなことを考えているのだった。

つづく。

 

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